1.3 先行研究と本稿でとりあげる、本研究の調査票設計との具体的な対応関係
1.3.1 概況
前項でとりあげた 井上ほか (2018) の内容の概略を、本稿に関連する限りで、以下に5つ列挙する。①日本にキリスト教徒は少ないが、日本人はダブルに信仰する民族であり、キリスト教に洗礼という手続きが不要であればキリスト教を含めトリプルな信仰をする人は多かったはずである。なお、このダブル、トリプルの問題は、本稿の分析・考察の軸になるものであるので、その詳細は 1.3.2 で説明し、また調査結果としては 3.3 で述べる。②その証拠はキリスト教式結婚式及びそれと類似したキリスト教主義学校の隆盛である。③女子アナウンサーにキリスト教主義学校出身率が高いのは、愛と奉仕の精神を育むとそれらの学校のウェブページに記載されていることに照応する。④皇族女子のキリスト教主義学校入学が多いのも、愛と奉仕の精神を育むとの期待があるからである。⑤キリスト教主義大学女子はきれい、金持ち、キリストの 3K といわれる。
さらに「現代日本における宗教教育の実証的研究」 (1998~1999) のなかで指摘された、本研究に密接にかかわるものとして以下の⑥を挙げる。⑥キリスト教主義に限定した話ではないが、宗教系の学校の設立目的には、その宗派の信徒の子弟の教育機会の確保と、その宗派のシンパを作ることにある3。
1.3.2 以下で必要に応じてこれらの補足説明を加えつつ、本稿にほぼ関わる限りでの本調査の設計に言及する。
なお、今回の調査では 1.2 ですでに若干ふれ、また後で 2. で詳述するように、Q12 で「あなたのキリスト教主義学校への関与についてお聞きします。当てはまるものを選んでください」という設問を設けた。2. で後述するようにこの Q12 の回答を 3 つのカテゴリーに再グループ化した Q12G という変数を、他の多くの変数を分析する際の軸として考えて分析を進める。
1.3.2 首尾一貫性かトリプルな信仰か、およびキリスト教式結婚式、等
まず、1.3.1 の①についてであるが、郭は「宗派に帰属しない日本人のトリプルな信仰」(井上ほか 2018 p.136)という見出しの下、以下のように論じる。神道、仏教あわせた信者数は 1 億 7244 万人で日本の総人口より 5000 万人多い。これはダブルな信者が多いためであるが、入信等の儀式はほとんど受けてはない。他方、キリスト教では入信に洗礼を要するという知識を多くの日本人は得ていて、この人数の膨れ上がりにキリスト教は加担しない。しかし、狭義に入信したとはいわれないが、日本人の意識としては仏教、神道のダブルな信仰に加えてキリスト教も加えた「トリプルな信仰」という意識をもつのではないか、と郭はいう。その証拠がキリスト教式結婚式の隆盛とキリスト教主義学校の人気、そして国民的行事と化したクリスマスであるという。
当然この郭の議論への反論として、クリスマスは言うに及ばず、キリスト教式結婚式も一つの風俗にすぎないとの見方もありうる。しかしながら濱田陽によるこの領域の研究(濱田 2001 pp.23−46)を読むと、郭の議論をある意味で裏づける事実に遭遇する。濱田のいうには、キリスト教式結婚式は、戦後間もなくYMCA が会員男性から非クリスチャンの一般信徒へとキリスト教式結婚式の門戸を開いたことが端緒であるが、これはその当時としては例外で(濱田 2001 p.25)、1960 年代末に、高度経済成長を背景に青学会館、東京 YMCA ホテル、等が一般人向けに開放され、またキリスト教徒も所属教会での挙式が手狭である場合には、これらを選択したことが事実上の始まりという。もっとも今日隆盛しているホテル等でのキリスト教式結婚式は、1980 年キリスト教ブライダル宣教団の牧師たちが日本人の若年層がキリスト教にふれるきっかけとして始めた(濱田 2001 p.33)。またカトリックについて濱田は日本のカトリック中央協議会が1973年にローマ教皇庁に提出した文書を紹介する。この文書では、キリスト教式結婚式を望む非キリスト教徒について、神社仏閣でなくあえてカトリックを選ぶことは彼らがカトリックを評価している証であると記し、またそういう申し出をする者の多くがカトリック系の学校の卒業生であると述べている点も濱田は指摘する(濱田 2001 p.29)。要するにキリスト教式結婚式は風俗の面も強いが、プロテスタント、カトリック共に聖職者の一部がそれを信仰の一歩手前のものとして肯定的に評価する動きもあり、またキリスト教主義学校との関連性も少なくともカトリックの聖職者たちからは意識されていることが、この濱田の研究で示される。もっともその一方でカトリックに関しては、日本側は宣教手段として結婚式を位置づけるべくお伺いを立てたが、バチカン当局は宣教ではなく霊的指導に留めるようにと指導し、他方、指導の後も日本のカトリックの側は霊的指導と共に宣教的方針を文書で明記しているという食い違いがあるとのことである(濱田 2001 p.30)。
このキリスト教式結婚式については本調査では Q22 で「Q22. キリスト教徒ではない日本人のカップルが、教会で結婚式を挙げることについて、あなたはどのように思いますか」という設問で 3 選択肢 1 択の SA で聞いている。
またトリプルな信仰という郭の指摘に対しては、「あなたが思う、キリスト教主義学校に対する設置母体のメリットに当てはまるものを上位 3 つまでの間で選び、中でも最もメリットだと思うものを 1 つ選んでください」とキリスト教主義学校の設立目的を聞くQ34 における、選択肢 9「信者にならなくても、キリスト教の教えを守ることによって、救われる可能性のある人を増やすこと」や、入信していない場合の救済やご利益の有無について尋ねる Q49 や Q50 を聞くことで、妥当性の有無が分かる。これらの質問と 1.3.1 の最後のパラグラフで記した Q12 とのクロス集計の結果に有意差があれば、郭のいうトリプルな信仰の存在の予測の側面から、キリスト教式結婚式を捉える可能性が拓けるといえるし、有意差がなければその可能性は低く、それは習俗の面に過ぎないといえよう。しかしいずれにせよキリスト教主義学校やキリスト教式結婚式についてはそれがトリプルな信仰の一環、つまり洗礼なき信仰心がありうるという予測に通じる面がある可能性はあるが、国民行事と化したクリスマスについては日本人の非信徒の場合、イエス・キリストとはほぼ縁もゆかりもないものと化しているというのが、多くの日本人あるいは日本に永く住んでいる外国人の偽らざる実感であろう4。とはいえ、この Q34 選択肢 9「信者にならなくても、キリスト教の教えを守ることによって、救われる可能性のある人を増やすこと」と キリスト教主義学校関与度を示す Q12 に関連があればトリプルな信仰そのものの可能性は拓ける。
また同書は「まえがき」でつぎのように記す。「われわれは素行の悪いクリスチャンを、よくなじる。・・・しかし浄土真宗や日蓮宗の人びとが浮気をしても、宗教にからめて批判しない。・・・つまり、日本ではキリスト教の方が良い宗教であるかのように、思われている。・・・江戸期には、淫祠邪教だとみなされた。そんなキリスト教が百数十年の時を経て、倫理面では信頼される宗教になりおおせている。そのサクセスストーリーが、これまでのキリスト教受容史では、見すごされている。講壇学説の一般通念には、その意味でこまったかたよりがある」(井上ほか 2018 pp.10-11〔・・・は中略。特記しない限り、以下同様〕)。
ここで批判される「講壇学説」の内容を井上は次のように纏める。「近代の日本社会は、けっきょくキリスト教をうけいれなかったと、よく言われる。信者の人口は、日本人ぜんたいの二パーセントにも満たない」(井上ほか 2018 p.9)。「また、日本社会は、キリスト教を歪曲してうけとめたとも、評されやすい」 (井上ほか 2018 p.9)。
この「はじめに」の文言を、先にあげた同じ著書の郭の先述の主張に照らしていい直してみると、次の 《 》に入れた文章のようになろう。《キリスト教は日本社会に定着せず敗者のようにいわれるが、キリスト教式結婚式、キリスト教主義学校、クリスマスの隆盛等に示される、仏教徒でありつつ神道の信者でもありキリスト教徒でもほぼあるという、トリプルな信仰の表れの状況を踏まえると、日本においてキリスト教を敗者とみなす見方は誤りである》。
井上章一自身は第 2 章末尾で、先行研究の佐藤 (2006) の日本でのキリスト教主義学校のもたらしたものは文化でありふるまいであったという発言を引きつつ、次のようにいう。「私は「ふるまい」もさることながら、キリスト教の倫理観に共鳴している日本人が数多くいると思っている。宗教や宗派にこそ帰属しないものの、仏陀の悟り、神道の霊魂とともに、キリスト教の神をも尊敬している」(井上ほか 2018 p.160)。このように佐藤の「ふるまい」としてのキリスト教の考え方を表向き肯定しつつも、それについて「さることながら」と述べて、「ふるまい」、習俗としての受容以上に倫理観としての受容があると論じ、その倫理観を「仏陀の悟り」「神道の霊魂」「キリスト教の神」という信仰の中核の言葉に置き換える。一見すると、井上に要約された「限りでの」佐藤の著書の見解を肯定するように書きつつも、信仰から切り離された習俗・「ふるまい」としてのキリスト教受容という見方を否定しようとしている。井上は参照頁を明示せず内容に言及するに留まるので、佐藤自身のテキストのどこが井上による言及の該当箇所なのか想像するしかないが、佐藤が佐藤卓己5と共訳したモッセに依拠しつつ「TPO に応じたリスペクタブルなふるまい」(佐藤 2006 p.25)と書かれた箇所のことだと推察される。仮にそこだとすると、ウェーバーの ethos、ブルデューの habitus 由来の、形が本質を決めることにも通じる考え方が強調されるが、ここで信仰と切り離した捉え方を佐藤が標榜している訳ではない。日本でのキリスト教受容は習俗であるとは述べるが、習俗が信仰を決定づける可能性は排除されない。「キリスト教に根ざした教育とは、すなわちリスペクタビリティの教育でもあった。洋風生活におけるマナー、作法といった、些末な行為の数々は、単に些末な行為の数々であるだけではない。神への敬虔は、現実の中では「つつしみ」がある生活態度として表出されねばならなかったのだ」(佐藤 2006 p.25)。佐藤自身はこのように型と精神の相互作用を想定する。
その点で井上の佐藤への婉曲な批判は厳密にはミス・リーディングといえる。ただし結果的に両者とも、日本人のキリスト教受容に対して、それらは一見ふるまい、形としてのみの受容であるが、その根底に倫理や精神性、さらに信仰に通じるものを孕むと考える点では、むしろ共通する。
ここで井上章一らは丸山真男の名前を出していないし、彼を多少なりとも意識しているか否かも定かではない。しかしそもそもトリプルな信仰は、丸山の描くキリスト教の日本における受容の姿と真逆に相当する。というのも、首尾一貫性を重んじるものであるがゆえ、キリスト教は日本人あるいは日本文化の無限抱擁性と相容れず排除され、定着しなかったというのが、丸山の主張の骨子であるからである(丸山 (1961) の言い方は「マルクス主義やキリスト教」という言い方であって、キリスト教はややマルクス主義の添え物ではあるが)。
丸山『日本の思想』は日本の固有信仰に由来する日本人の心性として無限抱擁性(丸山 1961 p.14)と中心性の欠如を指摘する。これは丸山の言葉ではないが、神道には、祝詞はあるし、経典として古事記、日本書紀、風土記等が列挙されるが、神道は明確な正典を欠く。伊勢神宮の簾の向こうは、初代文部大臣で明六社会長の森有礼が参拝のおり、杖で簾を持ち上げ示してみせ、彼の暗殺の一因になったとの説もあるように、不在で、中心がない。神道に典型的に示される日本の固有信仰の影響を受けた日本人は、神道に中心がないだけに、何でも受け入れる傾向にある。本地垂迹説や反本地垂迹説があるように、多様な宗教を受け入れる。別の著書である加藤周一・木下順二・丸山真男・武田清子『日本文化の隠れた形』(岩波書店)のなかで次のように丸山はいう。「神道というのは、はじめは仏教と習合して両部神道のような教義が生まれ、後には儒教と習合して、吉田神道とか吉川神道とかが出て来る。神道は、そういう他の世界観の助けを借りない と「教義」としての体系を持てないのです」(加藤ほか 2004 p.141)。以下の例も丸山にある訳でないが、洋食和食中華のいずれも好んで食べ6、年末年始の一週間はクリスマスを祝い除夜の鐘を衝き初詣に参拝し初日の出を拝むことを同じ人がやっても違和感なく受け入れられる等、文化の雑食性、「無限抱擁」性が日本人にはある。よくいえば、日本の文化は思想的宗教的に寛容な文化であると解釈することが可能である7。しかしそのような無限抱擁的な日本人の主に庶民が不寛容になる対象がある。丸山のいうにはそれが一神教のキリスト教であり、マルクス主義であるという(丸山 1961 p.15)。この言葉も丸山の言としては確認していないが、双方とも『聖書』『資本論』という正典とでも称すべき絶対的典拠がある。丸山の言葉を使えば、両者とも座標軸をもって物事を見ていく (丸山 1961 p.5)。他方、日本の固有信仰、神道は中心が欠如する(丸山 1961 p.21)がゆえに「寛容」であるのであるのだから、逆にそういった日本の宗教をはじめとする思想・文化は、正典という中心から首尾一貫性をもって世界を眺め解釈し正邪を判断するような一神教的な宗教や思想とは、まったく相容れないことになる。そういう首尾一貫性、いいかえるとある種の不寛容性をもつキリスト教、マルクス主義に対して、無限抱擁的な雑食文化のなかにいる日本人、とくに日本の庶民は、不寛容性を示す。さらに庶民がそうであるのと同時に、一人の人間の中に二つの傾向が併存しうるので、その点では知識人にも同様の側面がある(丸山 1961 p.52)と丸山はいう。
このような丸山の趣旨は《不寛容なものに対する不寛容》性を強く有する無限抱擁性(寛容性)と要約できようが、その議論からすると、ダブルな信仰は日本人の無限抱擁性に通じる。他方、郭はダブルとトリプルを連続して捉えるが、キリスト教をその一つに含めたトリプルな信仰という、郭を含めた井上ほか (2018) の着想は、丸山の文脈では、首尾一貫性を重視するキリスト教という位置づけから考えてあり得ないことになる。丸山からするとダブルと(キリスト教をその一つに含めた限りでの)トリプルとの間には断絶があるが、井上ほか (2018) では、これらは連続する。ただしキリスト教の宗派や学校の側、クリスチャン自身の側がどう考えているかは今回の調査対象者の基本属性からひとまず措いて、日本の一般の人びとの対キリスト教意識を今回は測定し議論する。よって、丸山の時代とは大きく変わっている可能性もある。そしてそもそも、現代の人びとは首尾一貫した体系を有する宗教としてキリスト教を眺めない可能性がある。
丸山を法学部助手に抜擢した南原繁は宗教的には内村鑑三の弟子で新渡戸稲造の影響も強く受けた。一方、唯物論研究会の発起人会議長も務めた長谷川如是閑が父親の親友で彼に幼少期より可愛がられ、第一高等学校在学中に如是閑の出る唯研の講演会を聞きに行ったがため警察に拘留された経験もある丸山に、当然クリスチャン歴はない。もっとも 遠藤 (2016) では、丸山のキリスト教からの影響を次のように記す。 「南原、三谷は内村鑑三から薫陶を受けた無教会キリスト者であり、丸山は両者から高校時代には法律哲学(法制)を、大学に入ってからは政治哲学を学ぶ経験は持ったものの、その後、キリスト教を介して、同信となることはなかった。しかし、丸山にとってこのドストエフスキーは、一方で自らの社会主義観とも深くつながっており、その意味で重要な作家であったが、他方キリスト教の理解という点でも、深く実存的な影響を受ける作家となった」。したがって、内村、南原を通じてキリスト理解の下地を得て、さらにドストエフスキーを通じて丸山のキリスト教観は形成されているといえる。いわば丸山は「 『イエスを信じる者』の契約」を誓った(内村 1958 p.28)札幌農学校二期生(新渡戸、内村も二期生)の孫弟子にあたる点は、彼の、首尾一貫性を求めるキリスト教像の背景として考えられる。また丸山には、長い禁教の時代を経た、明治期というキリスト教の事実上の復活期から数えると、まだキリスト教が事実上「新宗教」であった時代の息吹を、南原から伝え聞く機会は何度もあったはずである8。したがって丸山から幾世代も隔たった、令和のいわゆる既成キリスト教は日本においても既成宗教と化しており、その令和のさらに若年層に聞いた今回の調査結果は、丸山のイメージするキリスト教と異なる可能性も否定できない。実際、クリスマス、キリスト教式結婚式、キリスト教主義学校は、習俗としてであれ倫理の表れとしてであれ信仰の入り口としてであれ、排他的ではないキリスト教というイメージを日本人の間に醸成するのに貢献した可能性のあることは否めない。
その意味も籠めて今回の調査票を設計した。トリプルな信仰についての設問は先述の通りだが、それ以外にも首尾一貫したものへの寛容性についての設問もいくつか設けたが、そちらについては紙幅の関係もあり、別稿で論じる。
1.3.3 愛と奉仕の精神、および一部女性皇族のキリスト教主義学校への入学について
郭は女子アナウンサー出身校上位を占めるキリスト教主義大学の建学の精神を探るため、これらの大学のウェブサイトを探ると、いずれもそこで愛と奉仕の精神を謳っていると指摘する(井上ほか 2018 p.98)。しかし建学の精神がそのまま在校生や卒業生に浸透していると考えるのは、教育効果を楽観視し過ぎている。もっとも一般人ではなく、愛と奉仕の精神をご公務で日々示される皇族方にあらせられてはその限りではなく、皇族女子がキリスト教主義学校にご入学する、あるいはキリスト教主義学校出身者を男子皇族の配偶者にお迎えすることは、実際に行われてもきた。
キリスト教主義学校の生徒・学生・卒業生の愛と奉仕の精神については、調査票の Q29 でキリスト教主義学校の生徒・学生のイメージについて聞いた選択肢のなかに含めている。Q29 の選択肢 4「他人を思いやる心が豊かである」、選択肢 7「社会的活動への関心が高い」でこれらについて測定しようとしている。
また女性皇族については、Q11 で「女性皇族にキリスト主義学校出身者が複数人いることについて、あなたはどのように評価しますか」と 5 者 1 択の SA で聞いている。ただし調査実施時期の 2020 年 1 月の時点で ICU 出身の秋篠宮眞子内親王(当時;現、小室真子氏)の婚約並びに結婚延期の報道がなされていたため、回答にそのことによるバイアスがあった可能性はある。
1.3.4 きれい、金持ち、キリストの「3K」
井上は上記の著書の「はじめに」でキリスト教主義大学の女子を「きれい、金持ち、キリストの 3K」であるという噂についてその信憑性を検証しようとしている。非常勤先の仏教系女子大生が、自己卑下するなかでキリスト教主義女子大生をこう評して井上に語ったことが井上の着想の契機である。「検証」といっても先にもふれたが、非常勤先や会合等での私的な会話のなかでその噂が確からしいことを確認しているにすぎない。
とはいえキリスト教主義大学の女子のメディアへの登場頻度を独自に数え上げる等、マス・コミュニケーション学の内容分析的な作業をした資料は井上も作成し載せている。例えば 2005 年から 2014 年の「女性ファッション誌への学生モデル登場率の推移」という表(井上ほか 2018 p.74)では、読者モデル起用率で上位にキリスト教主義大学の女子学生が位置づけられていることを、数字をあげて説明している。
しかし、ファッション誌編集者の眼にキリスト教主義大学の女子学生が 3K9 であると映っていることは、この表から証明されるが、実際に編集者以外の、ふつうの市井の人びとが 3K の意識でキリスト教主義大学女子を捉えているか否かはこれだけでは分からない。
本調査ではこれもキリスト教主義学校の生徒・学生・卒業生のイメージを聞く、Q29 の選択肢に、この 「きれい」「金持ち」のイメージの有無を測定するものとして、「裕福である」「清貧である」と「容姿端麗である(みめうるわしい) 」「容姿端麗ではない(みめうるわしくない) 」を加えた。ただし佐藤 (2006) や 井上ほか (2018) と異なり、現代は女性に対するジェンダーバイアス(以下、女性バイアスと略す)を当然視できない時代ゆえ、生徒・学生等の性別を問わない表現にした。
1.3.5 キリスト教主義学校の設立目的について
「現代日本における宗教教育の実証的研究」(1998~1999) では、宗教系の学校全般の特徴として、信徒の子弟の教育機会の確保とその宗派へのシンパの獲得が、設立目的の例として示されていた10。このことはキリスト教主義学校に限定してもそのまま妥当するのかどうかを検証する必要がある。もっともこの研究ではキリスト教主義学校については、同志社の 1930 年頃までの卒業生の例を示して、現在とは比べ物にならない入信率を誇っていた時期のあることも示してもいる。この点については、後述するように 佐藤 (2006 p.17) でもミッション系高等女学校についてのみだが、表に示している。また「現代日本における宗教教育の実証的研究」では教育基本法並びに学校教育法が国公立学校に対してであるが、戦前の国家神道への反省から特定宗教の宗教教育に否定的であることも、宗教系学校が特定の宗教への布教に結びつくような宗教教育に及び腰な理由として挙げられていた11。
もっとも教育基本法の制定を推進したリーダーは丸山真男の恩師南原繁で、南原は官立第一高等学校在籍時に校長新渡戸稲造に感化され、同高元教員内村鑑三に弟子入りし、その新渡戸と内村は官立札幌農学校二期生で、内村のいうには自身及び新渡戸ら二期生は、そのほとんどが入信した一期生の先輩たちに「 『イエスを信じる者』の契約」をせよと、クリスチャンになることを迫られたとのことである。「カレッジの世論はあまりにつよく余に反対であった、それに対抗することは余の力におよばなかった。彼らは左に掲げる契約に署名するよう余に強制した、・・・余はついに屈した、そしてそれに署名した」(内村 1958 p.22)。
したがって本研究では、信者の獲得という先行研究では一応否定されている選択肢も含めて、キリスト教主義学校の設立目的を幅広い選択肢で想定した Q34 を設けた。ここでは「あなたが思う、キリスト教主義学校に対する設置母体のメリットに当てはまるものを上位 3 つまでの間で選び、中でも最もメリットだと思うものを1つ選んでください」という MA、SA 複合の設問をし、選択肢は「その他」「答えたくない」「よく分からない」とそれら以外に 12 個用意した。選択肢の 1 は「信者の子弟の教育要求への対応」、選択肢の 7 は「キリスト教への共感者(シンパサイザー)を増やすこと」である。他に選択肢の 8 では「キリスト教の信者を増やすこと」を入れ、シンパを作ることより直接的な目的があると考えるか否かも問うた。他方、例えば選択肢 9 は「信者にならなくても、キリスト教の教えを守ることによって、救われる可能性のある人を増やすこと」とした。これはある意味で「キリスト教への共感者(シンパサイザー)を増やすこと」にも近い内容であるが、それと同時に 1.2 の①や 1.2.2 で言及した、首尾一貫した信仰かトリプルな信仰かということに密接にかかわる選択肢として用意した。
この設問のように MA と SA 双方での答えを求める設問を本調査では多く用意したが、これらは MA ベースで回答者の比較的多い選択肢については、その選択肢を選んだ人を 1、選ばなかった人を 0 とした二択の変数を作り、他の多くの質問群とクロス集計させうる。このようにしてこの調査の軸となる変数を設定することも意図した。
